オンライン読書のススメ
 
 
〜Webの片隅から愛を込めて
 
 
 

2001年04月11日

鳥になった日 [ ショートショート | 短編 ]

秋月涼著 【森のハーモニー】

 これも最初に読んだのはかなり前になる。最初は紙面で読んで、再度Webで読んだ。
 作者はサークルで一時期ご一緒していた方で、実際にオフラインでもお会いしたし、真面目で歌が上手(カラオケに行ったんだな/笑)な好青年である。
 一時期、忙しさのためにサイトを閉鎖されていて、もしかしてご紹介できないんじゃないかと心配したが、この度、無事引越し再開されたので、この機を逃さずご紹介させていただく事にした。
 私自身が「やらなきゃ」と鞭打たれないとなかなか腰が上がらないナマケモノなので、『お引越しおめでとう企画だ〜』と祭り騒ぎに(勝手に自分の中だけで)した方が、励みになっていいのだ。――自分が;<我侭;

 この作品はジャンルでわけるとショートショートになる。原稿用紙換算枚数は9枚。
 ショートショートというジャンルは短くて気軽に楽しめる事と、日本には星進一という巨匠がいらっしゃる事で、オンラインでもかなり人気が高いジャンルではないかと思う。実際、ちょっとした時間に手にとれて楽しめるので、私は好きだ。自分が書けないせいもあるけれど。
 ショートショートはいくつかのグループに分けることができるように思う。読後感で分ければブラックユーモア系・スカッと爽やか系などだろうし、下地で分ければSF小ネタ系・落語系などになるだろうか。もちろん、もっと(無限に)分けられると思うが、分けはじめるときりがないのでこれくらいに。
 この話はスカッと爽やか系でかつ落語系だ。

 対象がショートショートなもので、あまり感想を詳しく書くと完全にネタばれしてしまって楽しめなくなってしまう。――この辺が、ショートショートの感想の難しいところでもあり、私自身が気合が入るところでもある(笑)。

 この作品は「鳥になった日」というタイトルどおり、『鳥になる』ことができる。――とはいっても体は私たちは生身の人間なので、鳥になるために迷いもするし恐怖も感じるし、興奮もする。
 切り立った崖を眺めに行った時、あなたはどういう行動を取る人だろうか。高い所がダメで絶対に近づかないという人も居るけれども、大抵の人は恐る恐る崖の縁に近付き、そっと下の日本海(――がシチュエーション的には一番好きです、私は;)を眺めるのではないだろうか。そして、手のひらにじっとり汗をかいて、落ちちゃったら怖いよな、とか、落ちちゃった人居るのかな、とか、今まさに自分が落ちていっていると想像などして、奇妙な興奮に包まれるのではないだろうか。
 ――そういう『怖面白い』感覚を楽しむことができて、かつ、ハラハラドキドキ、手に汗を握ることができる、この作品はそういうお話だ。

 作品の楽しみ方はいろいろあると思う。悲しい時に悲しい話を読む人も居れば、楽しい話ばかりを読みたい人も居る。悲しい話を読んで気分が沈みこむ人も居れば、逆に昇華されて楽になる人もいる。(悲劇は人をカタルシスに導くので、多くの読者を魅了するのだと、有名な誰かが言っていたような記憶がありますが、名前が出てこないですT-T)
 カタルシスをどう感じるかは読者次第だと思うけれども、読者をカタルシスに導けるかどうかは作品のパワーや魅力にかかっている。そして、
 この作品は私を爽快なカタルシスに導いてくれた作品。スカッと爽快になりたいときに、読んでいただきたいお話である。

 私的ツボ度:★★★★☆

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2001年02月01日

謎 [ 現代小説 | 短編 ]

鈴子著 【Strange Hours

 「謎」は原稿用紙に換算すると6枚の掌編である。他にも短編集や中編などもあるのだが、私は何故かこの作品に惹かれた。好みの問題なんだろうなと思う。
 もちろん、他の作品が面白くないわけではないのだけれど、イマイチ乗れなかった。理由は、どちらかというと心情を語るのが得意な、女性に多いタイプの方のような印象がしていて、その文体が、肉体的な動きや能動的な精神の動きを描く――あらゆる意味でのアクションシーンとでも言えばいいのかしら――時に、少し摩擦係数が大きくて勢いに乗れないような印象を受けてしまったせいだろうと、思う。たぶん。自己分析してみると。
 人の気持ちを表現する、その切り口はとても美しいので、もしかしたらそれを私が引きずり過ぎたせいかもしれない。

 「謎」はたぶん、少し大人になった人物なら誰しも感じた事がある感情が綴ってある。
 結婚しているしていないに関わらず、定期的に誰かのために家事をしていて、しかも、そんな自分がなんだかちょっとどうでもいい人間であるかのような気持ちになってしまったことのある、人生って夢ばっかりじゃないんだと思うようになったちょっと大人になった女性には(条件が多いなぁ;)覚えがある感情だろう。
 そういう女性の日常的な悩み、と捉えると、以前紹介させて頂いたケイミさま(ケイミさまのページはこちら)と雰囲気的に似ている印象がする。けれど、ケイミさまの文章がより母性的に偏っているのに対して、鈴子さまの文章は女性的だ。
 そのため、男性が読んでも共感できることは多いような気がする。たぶん、読んだ人間の多くが「あぁ、あるある、こういうこと。そうなんだよね」と感じるだろう。

 実は、私はこの「あぁ、あるある」という感情を嫌味なく表現することはとっても難しいと思っている。
 小説というのはフィクションの世界なので、格好良くしようと思えばいくらでもできるし、ドラマティックにしようと思えばどこまででも出来てしまう。そのために、出てくるキャラクター皆深刻なトラウマ持ちになってしまっていたり、展開がドラマティックなだけでそれ以外の面白みがなかったり、といったどこかちぐはぐになってしまった小説を幾つも読んだ事がある。
 フィクションだから表現出来ることと、フィクションゆえに表現できなくなっていくことの境目は難しい。
 小説の説得力というのは、いろいろなものから生まれてくると思う。それは小説世界の物理法則だったり、民族性だったり、人物のカテゴリー分けだったり、宗教背景だったり心理背景だったりするだろうけれど、私はそこに日常性も入っていると思う。
 先に言ったような物理法則や宗教背景などは、知識を蓄えれば何とかなる部分だろうと思うけれど、日常性は常日頃よく周囲を見て、普通忘れてしまうことや見逃してしまうことを大切にする目が必要だろう。それは、テキストがないことだからとても難しいし、とても時間がかかる。
 だからなのかもしれない。私が、日常のなんでもない風景の中に潜む、ささやかな感情の動きを切り出した作品を好むのは。

 予備校に通っていた時代、地下道の片隅の広場に面した喫茶店兼カレー店で、紅茶を飲みながら、よく、窓の向こうで喧嘩したりイチャついたり、何か真剣に話したりしている人を、いったいどんなドラマだろうと思いながら眺めて過ごしていたことを思い出した。

 私的ツボ度:★★★☆☆

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2001年01月10日

硝子の箱 [ 現代小説 | 短編 ]

テラ著 【夢乃欠片 現乃一片

 感想を言葉にするのがものすごく難しい。――たぶん、私自身が未だに思春期の殻をお尻にくっ付けたまま生きているからじゃないかとも思う。読者が思春期か思春期ではないか、男性か女性かによってもこの作品の印象は変わってしまうのではないだろうか。ベストでジャストな読者は思春期真っ只中を過ぎた当たりのどちらかというと内省型の女性、という印象がする。

 読み終えた後、私はふと思い出した歌詞があった。エリック・クラプトンの「TEARS IN HEAVEN」――どのアルバムに入っているかまではちょっと分らない。私の手元にあるのはグレゴリアンチャントに編曲したものだから。
 英文の歌詞を抜粋するのも無粋(作詞者の名前がわからないので、著作権の問題があるし)なので、私自身の手で訳してみる。

  天国であなたを見つけたら
  私の名前を忘れずにいてくれるだろうか
  天国であなたを見つけたら
  あなたは変わらぬままでいてくれるだろうか
  私は強く耐えぬいて
  生きていくのだ
  天国にはまだ
  私の居場所がないから

  天国であなたを見つけたら
  私の手を握ってくれるだろうか
  天国であなたを見つけたら
  立ち上がる私に手を貸してくれるだろうか
  いつの日か私は
  自分の道を見つけるのだ
  天国にはまだ
  留まるわけにはいかないから

  時は人を悲しませ
  時は人を平伏させ
  時は人を傷つける
  そして人を希わせる
  乞い求めさせる

  扉の先には
  きっと平安がある
  それを手に入れたときに
  天国にはもう哀しみはない
            ――「TEARS IN HEAVEN」


 この作品は下手に感想を書くと致命的なネタばれをしてしまいそうで、かと言って抽象的な言葉ばかりを書いても感想として意味をなさないので、そういう意味でも難しい。(書き難いのなら諦めればいいのだが、良いと感じた作品なのでそれだと悔しいから頑張ってみる/笑)

 人は悲しみの中にいるとき、現実感を無くすことがある。ことにその悲しみが唐突であればあるほど。私自身、まだ大学に入る前に外祖父を亡くした時、現実との剥離感をいやと言うほど味わった思い出がある。私はその時、予備校の寮に入っていたのだが、話を聞いて駆けつけたとき、私は自分の力でJRの特急券を買う事が出来なかった。何処でどう言えば買えるのか、それが分らなくなってしまったのだ。一つ一つの行動をするために自分の行動を確かめ、その確かめすら時にはどこまで確かめたか分らなくなった。悲嘆とはそういうものだ。その時の私には、まだその悲嘆を受け止めるだけの強さは備わってはいなかった。(半年前、祖父の危篤の知らせを受けて、JRとタクシーと飛行機を乗り継いで実家に帰ったとき、奇妙なほど冷静で物事をこなしていく自分が不思議なほどだった。多分、これは私が自分の足で社会を渡っていくようになったための成長という名の変化だったのだろう――いま思っても、その後の葬儀が終わり親戚を全員送り出してしまうまでの私自身は、信じられないほど気丈だった。その後、過労で倒れたけれども/笑)

 この『悲嘆』に覚えのある方は非常に明解にこの作品を読み取っていけるのではないかと思う。反面、共感し得ない人にとってはこの作品は不思議なほど美しい、捉えどころがないようで確実に精神に染みとおる水のような印象を受けるだろう。
 この作品は確かに小説なのだけれども、読後のイメージは非常に詩を読んだ後に似ている。読み解くのではなく、感じ取って欲しいと願う作品だと思う。文章も詩的で幻想的だ。そのせいで現実感は削がれてしまっている印象もするけれども、変に現実的に冷めて書かれるよりも詩的である事でテーマを美しく鮮やかに描き出せているように感じる。
 とても私が好きなタイプの話なので、読んでいて、幸せだった。

 私的ツボ度:★★★☆☆

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2001年01月05日

白い花 [ 現代小説 | 短編 ]

ケイミ著 【ケイミのショートショート】

 サークルで一時期ご一緒していた方である。何度かメールのやりとりもさせていただいた。とても素敵な奥様だという印象が私の中にある。
 私自身より幾分か年上の方なので、こんなことを言うのは失礼なのかもしれないのだが、可愛らしいと思える部分が多分にある方で、等身大の美しさが文章にも滲み出てくるタイプの方である。作中のささやかな祈りや悩みが私自身と重なり合う事が多くて、読むとどこかほっとする。センセーショナルなもの、グロテスクなもの、装飾過多のものがどうしても多くなりがちなオンライン小説の中で、日常の平凡の安らかさや美しさを表現されている作品が多くて、私は好きだ。そこには誇張表現されない平凡な悩みや人生が描かれるが、だからと言ってそれが薄いものだと考えている人は、間違っていると思う。日常の中に真理は落ちている。フィクションの面白さが作為だけではないことを教えてくれる作品群なのではないかと思っている。

 サイトのタイトルは「ショートショート」だが、これは量の基準としての「ショートショート」である。「まるで呪文のように」の感想の中でもショートショートの定義について言及しているけれども、二次的な内容的な定義上の「ショートショート」ではないので、「意外なオチ」等を期待して先入観を抱いて読んでいただきたくはない。(先入観で読んでがっかりというのは、やっぱりつまらないので/笑)

 もしかしたら男性読者には共感を得られる部分が少ないかもしれない。だが、反面、新たな発見をするのではないかなと思う。女性が――特にある程度の年を経た、自分の考えを確立させている母性を持った女性が――何を日々考え、悩み、夢みているのかを知りたいならば、読むべきだろうと思う。

 作品の中に出てくる人物は、おそらくは作者自身の思考の一部だろうと思う。作品を書いていると、作品の内容を私小説だと受け取られる場合もあるが、それはある意味では正解だが、別の意味では明らかに間違った読み方だと私は思う。
 作品とは思考の表現だろうと私は思う。(だから単なる娯楽のためだけに計算された作品には、私自身があまり強い魅力を感じないのだろうとも思うのだけれど) 思考そのものを作者の一部と見るならば、作品とは作者を映す鏡だろう。だが、それは作者自身ではない。あくまで思考は作者の一部であって、作品の中の人物像はその思考をデフォルメしたものだろうと思うのだ。美しい希望に満ちた小説を書く人が真実幸福に包まれているかと言われれば、そうではないのと同じで、思考だけを読み取ってその人を類推するのは行き過ぎである。
 ――が、私は作品を通して彼女を類推するのが好きだ。それはその類推を通して時に私の友人を、私の母を、私自身を共感と反発を持って感じとり、考え、自分自身の結論を導き出すのが好きだからだろうと思う。これはある意味で作品を読むという範疇からは逸脱した行為だろうと思う。だが、そうしてしまう日常の説得力が彼女の作品にはある。

 作品群の中からこの「白い花」を選んだのは、そのタイトルの美しさと同時に、登場人物の頼りなくも強い姿と儚く小さくありながら強靭に地面に根を張って一途に咲いている白い花のイメージの重なり合いがとても美しく印象的だったからだ。
 私は――私たちは――確かに一つの花なのだと、日常の磨耗の中で忘れがちなことを思い出したような気がした。
 花は愛でられるべきものだ。人は簡単に自分というものに無価値というレッテルを貼り付けたりするけれども、どんな時でも花を愛でるように自分を愛しんでくれている人はいる。風が吹かないと花であることを忘れてしまう私だから、こうして思い出す瞬間の自分自身が愛しかった。

 私的ツボ度:★★★★☆

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2000年12月28日

コーヒーメーカー [ 現代小説 | 短編 ]

斎藤麗奈著 【ラブライフ

 若い女性の恋愛に関するピュアで誠実な、どこか狂おしいほどの恋慕というものを描かせたら、オンライン小説界ではこの人の右に出るものは居ないのではないかとさえ思う。それくらいに、彼女の描く女性像というものは現実感を持っていて、それでありながら、現実離れした純粋さを保ちつづける。嫉妬や行き違いのような、現実にあったら醜く生々しくなってしまうようなことさえもが、彼女の作品の中ではその裏にあるどうしようもない恋慕という感情の美しさに焦点が合わさる。
 現実世界にこの作品に登場する彼らのような人がいるだろうかというと、居ると断言できる。けれどそれが100%全て彼らと等しいかといわれると、否と私の感情は答える。
 人は、――おおよその人間というものは――苦しみを別の形にしてすり替え、どうしても自分を苦しくないように保ちつづけるのだ。それは人が普遍的に持っている、強さであり弱さだと私は思う。

 たぶん、これは、持って生まれた視点――というか、人というものを見つめる時の方向性や基準が生んだものなのではないかと思のだが、彼女の作品の多くに登場する人間たちはどうしようもなく強い。強いが故に孤独で、美しいが故に孤独だ。
 元来人というものは孤独なのだと私は思う。ある組織に組み込まれている一瞬感だけ、人は孤独を忘れる。たとえ小さな螺子だとしても、それはそこに存在を許された螺子だからだ。だからこそ、人は恋愛においてもパートナーという枠組みを大事にするし、結婚という形態を大切にするんだろう。私は(というか私と旦那は)そういう感情に乏しいが、それでも、お互いの内面の根底にあるのは相手が自分をこの世界の中で一番必要としているという確信であったりするのだから。

 小説というのは常にフィクションだ。私小説であろうとも、それは「私」という個体の思考フィルターを通過させた事実とそこから派生する感情の流れであって、ノンフィクションではない。事実と真実は必ずしも同一のものではないし、真理にしても然りなのだ。
 だが、なぜ、フィクションの中にこうも真実が描き出されたり真理が浮き彫りになったりするんだろう。そういう感情を抱かせてくれる、稀有なオンライン小説だと、私はこの作品について思う。

 この作品は20代前半の男女4人が描き出す、恋慕の感情の物語である。誰かを求めるということがどれだけ切実で、大切で、強くて、そしてこの世の全てのことよりも脆いのかという話である。
 恋愛小説というと、どこか恋愛の過程や駆け引きそのものを「読ませる内容」とするような印象があって、私はこの小説を恋愛小説を呼びたくない。この話は「過程や駆け引き」の話ではなくて「愛することそのもの」の話だからだ。

 この話は原稿用紙換算で20枚弱の短編である。だが、短編であるという印象をあまり受けない。それは内容の充足度が既に短編という範疇を越えているのと、20枚弱という容量の何処にも一文字の無駄もないからだろう。
 内容だけでなく、完成度も高い。
 愛する事に傷ついた瞬間にも、愛することを疑った瞬間にも、愛する事に満ち足りた瞬間にも読んでもらいたい作品である。

 私的ツボ度:★★★★★

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2000年12月26日

桜梅隗 [ 現代小説 | 短編 ]

瓶井めぐみ著 【閉鎖】

 数多くの小説登録サイトで殿堂入りを果たしていらっしゃる方だから、オンライン小説好きの方なら割と知っていらっしゃる作者名ではないかと思う。
 この作品は比較的最近書かれた話で、彼女自身があとがきの中で「自由に書きたいという衝動を押さえきれなくなった」と言っている通り、この作品の中には勢いと何か切実な感情が渦まいているように感じる。言葉で置き換えるなら『旬』だろうか。今、この感情の中でしか書けないもの。小説にも書かれるべき時期というものは確実に存在していると思う。

 この話の中では幼児虐待のシーンが描かれる。正確に言えば幼児虐待の中でも身体的虐待に相当するシーンである。最近、虐待事件報道件数も多くなり、聞いているほうが怒りさえ湧いてくるような場合がある。これもいい機会なので、少しだけ幼児虐待について私が知っている事についてまとめてみたいと思う。

 幼児虐待という言葉と定義が確立されたのは1960年代のことであるので、この問題がいかに表に出てくる事が困難であったかということが理解できるだろう。事実、それ以前においては現在「虐待」と定義されることであっても「躾」だとされ、また、社会的な混乱期には子供を不衛生な状態にしておくしかなく、それを生き抜くことの出来た子供だけが生きる権利を与えられていた。
 現在「虐待」という言葉は一般的となったが、未だに一部では「折檻死」という言葉も使用される。これは正確な用法ではないことを知っておかねばならない。「折檻死」とは子供に落ち度があり行き過ぎた躾によって命を落すことであるが、そもそも子供が叱られるようなことをするのは当たり前のことであるので(完璧な子供が居たら、それは逆に不気味だ)、このような加害者側を容認しかねない言葉を「虐待」のシーンに持ち込んではならない。

 幼児虐待は4種に分類されている。
 身体的虐待:身体に対する暴行によって外傷を生じさせたり、生命の危険さえも与える行為。冬の夜に屋外に締め出す等の行為も含まれる。
 性的虐待:大人によって強制される性的暴行。多くが親や親に代わる保護者的な立場の人間、兄弟などである。
 心理的虐待:強度の心理外傷を与える行為。この時の心理外傷とは無感動や鬱状態、異常習癖などの異常を示すもののこと。多くは親によって与えられるが、保育園の先生など指導的立場の人間から与えられた外傷もこれに含まれる。
 Neglect:栄養不良状態など、親が為すべき子供の保護を怠り、放置すること。
 実際には1種だけの虐待という事は少なく、4種の幾つかが複合的に虐待の場面に現れる事が多い。

 …さて、なんだか説明にかまけてしまったな。(ここはオンライン小説の感想の場なのでは…/笑)

 彼女の書く文章の、私にとっての魅力は「リアルさ」の一言に尽きる。非常に人気のあるファンタジー小説の中にもその「リアルさ」は存在するが、若干「生々しさ」に傾いているように感じる。私はファンタジーの中に垣間見える生々しさも嫌いではないが、心情の吐露が形作る「リアルさ」よりも、何気ない淡々とした事実関係の告白の中に潜む「リアルさ」の方により強く魅力を感じるようだ。多分、感情吐露による「生々しさ」は、ある限界点を越えるとデコラティブに感じられてしまうせいなのだろう。反面、この作品のように淡々と語られた言葉を読んでも魅力を感じられないという人も居ると思う。それは好みの問題だから。

 私はこの作品は不特定多数の読者に対して綴られた言葉ではなかろうと感じている。彼女はある一部の読者を想定して(特定の誰か、ということではない。読者層や読者のタイプという意味である)書いたか、そうでなかったら、ただ純粋に「書きたいという衝動」によって書いたのだろうと感じている。

 かつて「虐待」に似た行為を経験した人間と経験していない人間が読んだら、この作品から感じられる印象は大きく異なるのではないだろうか。
 この作品には「私」という一人の女性の過去が描かれる。そこには飾られる言葉もなければ、鮮烈な感情の吐露もない。ただ、淡々と事実が描かれていく。少女であった「私」の心の動きも不必要に飾り立てられない。また、大人となった「私」が幼少期の体験を乗り越えたのかトラウマとしてしまったのか、そこに救いがあったのかどうかさえ曖昧に描かれる。
 変な言い方だが、私は救いが描かれないからこそこの作品が好きだ。そして、この作品の中の「私」は救われていると信じている。

 救いの形は人それぞれであり、誰かにとっての救いは他の人間にとっては無意味なことだったりする。事実、生きていてさえも、与えられた救いが救いであったと気付く事が出来るのは稀な事であり、絶えず救われていながら未だ救いの手を望んでいるような所が、人には少なからずある。
 強制的に私自身に理解できない救いを与えられるよりも、いっそ語られない言葉としての救いを行間に匂わせてくれる方が好きだ。

 私的ツボ度:★★★★★

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まるで呪文のように [ ショートショート | 短編 ]

価格(しんそうじ)著 【まけないこども

 最初にこの作品に決めた理由は、単にこの作品が一番好きだからだ。(笑)
 この作品を最初に読んだのは1999年の梅雨から夏にかわろうとする頃だった。既に読んでから一年以上経とうとしているのに、この作品は私の中で印象の強さが変わらない。
 それは単にインパクトだったのかもしれない。だが、そのインパクトが薄れる事がないというのは、絶対にこの作品の中に何か私の心を撫でていくものがあるからに違いないのだ。

 最初に作者価格(しんそうじ)さまのことを語るべきだろうが、それは今後「One-Side Love」のコンテンツの中でやっていこうと画策しているので、ここでは触れない。(触れたいけど/笑)

 この作品はSFというカテゴリーに作者は分類している。けれど、私は少し違う印象をもつ。

 SFという言葉の定義を厳密に行うならば、狭義には「問題提起・展開・解決というストーリー上の重要なファクターの全て(ないしは多く)が理工学的な知識に基づいた科学的手法を利用して文学へと変換されているもの」であろう。広義には「設定が科学的であり、科学的であること自体が文章の大きな魅力となっている小説」ではないかと思う。

 この作品を最初に読んだ時、私はショートショートだと思った。(文章量自体は原稿用紙20枚強なので、厳密にいうショートショートの量の定義には反する)
 ショートショートはもともと「短い小説」という意味合いだったが、現在のショートショートの多くを見ていると、二次的なもっと内容的な定義によっているように感じる。すなわち、「斬新なアイディアとプロットと意外な結末」の3点が見られる短編小説、という意味合いである。

 まぁ、ジャンルというモノはそれ自体に重要性があるわけではなく、作品の陳列棚を上段にするか下段にするかというような意味合いしか持たないので厳密にする必要などない。でも、SFと聞いて食指を引っ込めてしまう人がいるとちょっと悲しいし、バリバリの狭義SFファンの方の期待を裏切るのも嫌なので、なるべくこの辺は理論的に攻めてみた。(笑)

 私はこの作品は愛の物語だと思っている。人として誰もが持っている、切実で不器用で、それでいてけして消すことの出来ない人間愛の物語ではないのかと。
 主な登場人物は一人。八木というオリンピック銅メダル選手で、光の中を歩きつづけていた。だが、文章からその華やかさは匂わない。八木はスーパーヒーローではない。一人の悩める男であり、その経歴から考えると、不自然なほど地味だ。
 だが、彼の中にある悩みは、人が必ず抱く悩みに酷似している。そのものだと言ってもいいかもしれない。彼は彼自身であるというidentityを明確に得る事が出来ない。

 この作品の秀逸さは、そのある意味語り尽くされているようなidentityの問題を、設定にSF的な「クローン野球」という個人であり団体でもある人格によって行われる競技の中で語ったことであろう。
 それはクローンという類似した集団の中で生まれる、個間の差異の曖昧さであり、個人の定義そのものであり、現代においてのfamily identityの確立の難しさをも問題として提起しているように感じる。
 それでいて読む者に自分の悩みと類似しているが故の拒絶を起こさせないのは、あくまでそれが「クローン野球」という現実と剥離した場所にあるからであり、それでも心に何かを残していくのは、私もまた、かつて「私であるということ」に対して恐ろしいほど切実に悩んだ事があるからだと思う。

 自分が「自分」でなくなる瞬間を自分の手で行われてしまう怖さと、その状態でも尚「自分」に対する励ましを捨てきれない八木という男は、私の中で、「私」の中に存在する何人もの「私」そのもののような気さえする。

 この作品に限らず、彼の作品には彼の「人としての優しさのある視点」が感じられる事が多い。着眼の素晴らしさもあるけれど、私にとって彼の小説の魅力というものは、多分にその優しさにあるように思う。
 インパクトを得るために救いのない話を書く人は多い。救いのない話は楽だ。グロテスクな描写さえ出来てしまえば、内容はどうでもいい。それは一次のインパクトは高い。だが、そのインパクトはすぐに消えていく。
 インパクトの高さは作品の魅力にはならない。インパクトの持続こそが作品という不可思議な生き物の魅力であると、私は思っている。

 私的ツボ度:★★★★★

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