2000年12月26日
まるで呪文のように [ ショートショート | 短編 ]
価格(しんそうじ)著 【まけないこども】
最初にこの作品に決めた理由は、単にこの作品が一番好きだからだ。(笑)
この作品を最初に読んだのは1999年の梅雨から夏にかわろうとする頃だった。既に読んでから一年以上経とうとしているのに、この作品は私の中で印象の強さが変わらない。
それは単にインパクトだったのかもしれない。だが、そのインパクトが薄れる事がないというのは、絶対にこの作品の中に何か私の心を撫でていくものがあるからに違いないのだ。
最初に作者価格(しんそうじ)さまのことを語るべきだろうが、それは今後「One-Side Love」のコンテンツの中でやっていこうと画策しているので、ここでは触れない。(触れたいけど/笑)
この作品はSFというカテゴリーに作者は分類している。けれど、私は少し違う印象をもつ。
SFという言葉の定義を厳密に行うならば、狭義には「問題提起・展開・解決というストーリー上の重要なファクターの全て(ないしは多く)が理工学的な知識に基づいた科学的手法を利用して文学へと変換されているもの」であろう。広義には「設定が科学的であり、科学的であること自体が文章の大きな魅力となっている小説」ではないかと思う。
この作品を最初に読んだ時、私はショートショートだと思った。(文章量自体は原稿用紙20枚強なので、厳密にいうショートショートの量の定義には反する)
ショートショートはもともと「短い小説」という意味合いだったが、現在のショートショートの多くを見ていると、二次的なもっと内容的な定義によっているように感じる。すなわち、「斬新なアイディアとプロットと意外な結末」の3点が見られる短編小説、という意味合いである。
まぁ、ジャンルというモノはそれ自体に重要性があるわけではなく、作品の陳列棚を上段にするか下段にするかというような意味合いしか持たないので厳密にする必要などない。でも、SFと聞いて食指を引っ込めてしまう人がいるとちょっと悲しいし、バリバリの狭義SFファンの方の期待を裏切るのも嫌なので、なるべくこの辺は理論的に攻めてみた。(笑)
私はこの作品は愛の物語だと思っている。人として誰もが持っている、切実で不器用で、それでいてけして消すことの出来ない人間愛の物語ではないのかと。
主な登場人物は一人。八木というオリンピック銅メダル選手で、光の中を歩きつづけていた。だが、文章からその華やかさは匂わない。八木はスーパーヒーローではない。一人の悩める男であり、その経歴から考えると、不自然なほど地味だ。
だが、彼の中にある悩みは、人が必ず抱く悩みに酷似している。そのものだと言ってもいいかもしれない。彼は彼自身であるというidentityを明確に得る事が出来ない。
この作品の秀逸さは、そのある意味語り尽くされているようなidentityの問題を、設定にSF的な「クローン野球」という個人であり団体でもある人格によって行われる競技の中で語ったことであろう。
それはクローンという類似した集団の中で生まれる、個間の差異の曖昧さであり、個人の定義そのものであり、現代においてのfamily identityの確立の難しさをも問題として提起しているように感じる。
それでいて読む者に自分の悩みと類似しているが故の拒絶を起こさせないのは、あくまでそれが「クローン野球」という現実と剥離した場所にあるからであり、それでも心に何かを残していくのは、私もまた、かつて「私であるということ」に対して恐ろしいほど切実に悩んだ事があるからだと思う。
自分が「自分」でなくなる瞬間を自分の手で行われてしまう怖さと、その状態でも尚「自分」に対する励ましを捨てきれない八木という男は、私の中で、「私」の中に存在する何人もの「私」そのもののような気さえする。
この作品に限らず、彼の作品には彼の「人としての優しさのある視点」が感じられる事が多い。着眼の素晴らしさもあるけれど、私にとって彼の小説の魅力というものは、多分にその優しさにあるように思う。
インパクトを得るために救いのない話を書く人は多い。救いのない話は楽だ。グロテスクな描写さえ出来てしまえば、内容はどうでもいい。それは一次のインパクトは高い。だが、そのインパクトはすぐに消えていく。
インパクトの高さは作品の魅力にはならない。インパクトの持続こそが作品という不可思議な生き物の魅力であると、私は思っている。
私的ツボ度:★★★★★
Posted by 風間 : 2000年12月26日 00:00 | トラックバック